過去の震災を振り返るとき、
台湾の支援がなぜか不自然なくらい目に付きます。
今回の熊本地震でも真っ先に声をあげてくれたのは、台湾だったように思います。
2011年の東日本大震災ではアメリカと同じく29億円の義援金だったし、
被災地の住民を対象にした無料の台湾旅行も招待していました。
アメリカと比べればかなりの小国の台湾が、
なぜここまでしてくれるのか?と疑問に思う人も多いかと思います。
それは今から90年前の日本人から始まっているようなのです。
八田與一(はった よいち 1886年2月21日 – 1942年5月8日)は、
1920年(34歳)から台湾で烏山頭(うさんとう)ダムの工事を指揮し、
1930年(44歳)のときに世界一の貯水量のダムとして完成させました。
それは1936年にアメリカのフーバーダムができるまで世界一の貯水量の座を守っていました。
それまで台湾の嘉南平野は台湾最大の平野で、
雨季には洪水が起き、乾季には干ばつとなり、飲み水にも困るほど荒れた土地でした。
そこに烏山頭ダムができ、莫大な農産物の生産地へと変貌をとげました。
八田與一は台湾に唯一の銅像を立てられているほど地元に愛され、
第二次大戦中に戦死した與一の後を追って、戦後に烏山頭ダムに投身自殺した妻の外代樹(とよき)も銅像が建立されています。
㈱竹中銅器さんより
では、八田與一は台湾に富を享受したから愛されているのでしょうか?
そうではありません。
八田與一はダムの建設に当たり、
地元の台湾人のダム建設従事者の家族のために、
病院、学校、住宅街、商店街、銭湯に加えて、
プールやテニスコートまで兼ね備えた街を作ってあげました。
その当時の台湾は日本の植民地だったのですが、
台湾人を奴隷のような扱いはせず、
日本人以上に大切に接していました。
そして台湾人が一番感激したことは、
工事が完了した時に作った殉工碑です。
台湾マガジンより
ここには、工事中の事故で亡くなった方や、病気で亡くなられた方の名前が刻まれているのですが、
日本人と台湾人の差別なく、死亡した順番で名前が刻まれているのです。
ここでも八田與一は、日本人と台湾人を対等に扱っていました。
このような心遣いが、台湾人の心に深く入り込んでいたのです。
そしてそれは、台湾の小中学校で今でも子どもたちに教えられているのです。
ですから日本人が困っているときには、
台湾人全体が八田與一から受けた恩を少しでも返そうとしているのではないでしょうか。
同じような話はイラン・イラク戦争時でもありました。
海難1890 ダイジェスト特別映像PART2
日本・串本(和歌山県)
1890年:エルトュールル号海難事故
村民は全力で遭難したトルコ人たちを救い、
わずかな貴重な食料を彼らに与え、多くの命を救いました。それから95年後、イラン・イラク戦争の渦中。
「すべての航空機を無差別攻撃する」
というフセインのイラン領空・無差別攻撃宣言が発表されました。「まだ300名近くの日本人がテヘランに残っているんですよ」
1985年イラン・テヘラン在留邦人救出事件
「日本は救援機を飛ばしてくれないんですか?」
トルコ航空
「テヘランに一機派遣する、パイロットの有志を募りたい」テヘラン空港
(飛行機を待つ大勢のトルコ人たちを前に、一人のトルコ人が言う)
「我々の祖先であるトルコの英雄たちが、遠い異国の地の善意で無事、祖国へ帰ることができた。今度は私たちの番だ」
日本人は欧米の真似をする必要などないのです。
日本人は日本人のありのままの姿でいるだけで、
世界から尊敬される民族なのです。
このような話が表に出てこない理由は、
日本人に、日本人としての誇りを持たせないような圧力が、
GHQの時代から続いていたからです。
でも、それはもう、終わりのようですね。
これからは日本の感性というものを、世界に向けてアピールする時代へ入っています。