明治前、世界の1/4を植民地化した英国。
日本侵略の目前で手を止めた意外な訳とは?
という宣伝文句を見たことはないでしょうか。
私はこの謳い文句に釣られて高い買い物をしました。
スタンフォード大学のフーバー研究所教授、
西悦夫の歴史講座は一つだけでも29,800円(税別)もかかりますが、
その中の「vol.1アヘン戦争〜明治維新」と、
「vol.2 幕末・明治維新・日清日露戦争」で、
その答えを話しています。
もちろん、高いだけのことはあります。
これは5時間17分と6時間22分で合計11時間39分と長いですが、
聞く価値は十分にあります。
私は音声のみをダウンロードし、
車での長距離出張中に聞いています。
教科書では習わない重要なことが沢山ありますから、
東大生こそ、聞いておくべきだと思います。
スタンフォード大学は、
20数年間、日本からの入学はないそうです。
我こそは、という方が続いて欲しいですね。
ここでは音声の中身を書くと営業妨害になりますので、
歴史の流れから、年表を通して説明したいと思います。
目 次
年 表
1823年、シーボルトがオランダ人として来日
1829年、シーボルト国外追放
1840年、アヘン戦争(~1842年)
1851年、太平天国の乱が中国で勃発(~1864年)
1853年3月、クリミア戦争(~1856年3月)
1853年7月、ペリー来航
1856年6月、アロー(第二次アヘン)戦争(~1860年8月)
1857年5月、インド大反乱(セポイの乱)(~1859年)
1858年、日蘭修好通商条約(米、露、英、仏も同年に締結)の締結により、
シーボルトの国外追放が解除
1859年、シーボルトは長男アレクサンダーを伴って再来日し、
幕府の外交顧問となる
1861年、アメリカ南北戦争(~1865年5月)
1862年5月、高杉晋作、五代友厚らは幕府使節随行員として上海へ渡航し、
清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞
1862年9月、生麦事件勃発
1863年5月、長州五傑がロンドンへ渡航
1863年6月、下関事件勃発
1863年8月、アレクサンダー・シーボルトは英国公使の通訳・翻訳官に任命、
アーネスト・サトウの部下となる
1863年8月、薩英戦争勃発
1864年7月、下関戦争勃発。
1864年8月20日、禁門の変(蛤御門の変)
1865年3月3日、香港にHSBC設立
1865年4月17日、薩摩藩遣英使節団(五代友厚、森有礼ら)19名を、
ロンドンへ派遣する(~1866年)。
1865年5月、亀山社中(海援隊)を結成
1866年3月7日、薩長同盟締結
1866年7月28日、パークス公使ら英国使節団(五代友厚、森有礼ら)歓迎の宴
1867年11月9日、大政奉還
1867年12月10日、坂本龍馬暗殺
1868年1月8日、徳川慶喜は大阪城にてレオン・ロッシュ公使と会見し、
途中からハリー・パークス公使が参加する
1868年1月27日、鳥羽伏見の戦い
1868年1月30日、徳川慶喜はひそかに大阪城を脱出し、江戸へ
1868年2月12日、ロッシュ、一旦江戸に戻り徳川慶喜に再起を促すが、
慶喜はこれを拒否
1868年2月18日、パークス、戊辰戦争に対する英国の局外中立を宣言。
他国もこれに追従
1868年3月 5日、徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺にて蟄居
1868年3月16日、勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命され、
幕府全権として新政府軍との講和を目指す
1868年4月 5日、勝・西郷会談。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定
1868年5月 3日、江戸城無血開城
1868年5月22日、パークス、大坂城にてビクトリア女王の信任状を、
明治天皇に提出(外国による最初の明治政府正式承認)
1868年10月6日、新政府軍、会津領内に侵攻
1868年10月23日、明治維新
1869年6月27日、榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結
1870年8月、アレクサンダー・シーボルトは英国公使館を辞職し、
新政府に雇用される
1871年1月17日、香港および英国から鋳造機を導入して銀貨の鋳造を初め、
明治4年(1871年)8月から金貨が発行された
1871年12月23日、岩倉使節団が渡米
1877年2月15日、西南戦争
1881年10月、アレクサンダー・シーボルトは、
外務卿(外務大臣)の井上馨の秘書となる
シーボルト親子の役割
シーボルトの役割
アレクサンダー・シーボルトの父親であり、
いわゆる一般的に言われる「シーボルト」とは彼のことです。
シーボルトは1829年、伊能忠敬作成の日本地図を持ち出そうとして捕らえられ、
「大日本沿海輿地全図」は没収されたことになっていますが、
もう一つの書き写しがあったようです。
最近、シーボルトの子孫が保管していた箱包みから、この「大日本沿海輿地全図」地図が発見された。 と言うことは、シーボルトは、もう一つ「大日本沿海輿地全図」を持っていたことになる。 実は、彼は、高橋作左衛門にもう一枚この「大日本沿海輿地全図」を最初の地図が東に傾いていたので真北になる様に等、修正した上で複写する様に頼んでいたのであった。
行くなら奈良!さんより
この地図の書き写しはペリーに渡り、
黒船来航に役立ったようです。
明治大学図書館さんより
余談ですが、シーボルトの父親には三人の弟がいて、
その末弟であるアダム・エリアスの長男がヤーコップ・シーボルト(1801年生まれ)で、
そのヤーコップの次女にアガーテ・フォン・ジーボルト(1835~1907)がいます。
彼女はブラームス(1833~1897)の恋人として有名な方です。
アレキサンダー・シーボルトの役割
彼はシーボルトの息子で、
1858年の日蘭修好通商条約により、
シーボルトの国外追放が解除され、
1859年にアレクサンダーは12歳の若さで親子で来日しました。
日本シーボルト協会さんより
その後、シーボルトが日本を留守にしていた間に、
娘のイネ(日本初の女医)の世話をしていた二宮敬作や、
その弟子の三瀬諸淵らから、
アレクサンダーは日本語を習いました。
1863年8月、アレクサンダーは17歳の若さで、
英国の国家試験に合格して、
英国公使の通訳・翻訳官に任命されました。
この時からアーネスト・サトウの部下となり、
1870年に英国公使を退職して新政府に雇用された後も、
情報をサトウに流していました。
井上馨外務卿の秘書もしていましたから、
明治政府の動きはすべて英国に流れていたことになります。
英国が日本へたどり着くまで
英国の戦争
英国は黄金の島ジパングを植民地にしたかったのですが、
以下のような戦争があり、
なかなか日本までたどり着きませんでした。
さらにこれらの戦争による英国軍人の損害により、
英国議会がさらなる戦争を認めないという論調になり、
別の手で日本を手に入れる策を考えだしました。
1840年~1842年:アヘン戦争
1853年~1856年:クリミア戦争
1856年~1860年:アロー(第二次アヘン)戦争
1857年~1859年:インド大反乱(セポイの乱)
1859年~1864年:太平天国の乱に参戦
この戦争の間に英国は、
植民地のインドで栽培したアヘンを中国に密輸し、
莫大な富を得ていました。
そして、1862年の生麦事件から1863年8月の薩英戦争が勃発し、
英国側の予想外の損害で、薩摩武士の勇猛さを認めるようになる。
これにより英国軍の損害による英国議会からの非難を想定し、
力で攻めることから、日本国内の内戦を画策し、
日本国内から崩れるように仕向けることに方向転換する。
そして1864年7月に下関戦争が勃発すると、
勇猛果敢な薩長を結びつけるように、
英国側は働きかけました。
坂本龍馬は英国に使われたのです。
HSBCの役割
世界初の不平等条約である、
南京条約(1842年)や北京条約(1860年)により、
英国は中国から莫大な賠償金を得ました。
翌年に設立したHSBCは、
それらの資金を整理する(本国への送金も兼ねる)という目的がありました。
このHSBCは設立の翌年(1866年)には、
日本の支店として横浜に設立しています。
1866年は薩長同盟の年でありまして、
英国と薩長が蜜月関係を確固たるものとした年でもあります。
トーマス・グラバーは1861年よりジャーディンマセソン商会の長崎代理店として来日していて、
当初は生糸や茶を日本から輸出していました。
そのうちアメリカの南北戦争が終わり、
市場へ武器が余ってきたところへ、
尊王攘夷の声が日本で高まったことから、
日本への武器の輸入へ、商売を切り替えていきました。
グラバー商会の武器売買の売買金額は「つけ」であり、
その「つけ」は、
内戦で勝った暁に薩長側から支払ってもらうものであったため、
明治維新が成立するまでの運転資金が必要でした。
また、坂本龍馬の活動資金(宿賃、飲食費など)や、
50人からなる海援隊の人件費など、
日本で内戦を起こさせるための資金も必要でした。
HSBCはそうしたもののために、
必要だったのです。
フランスの役割
上記のアロー戦争以降は、
英国と仏国が協力した戦争となっていて、
その後に続く日本攻略も、
両国の協力関係は継続していたと見るべきです。
歴史の教科書では、旧幕府側に仏国がつき、
新政府軍側に英国がついていたと書かれています。
しかし、歴史の流れを見る限りそれは嘘で、
英国と仏国が協力して、
日本の内戦を演出していたと見るべきなのです。
英国が新政府側をけしかけ、
仏国が旧幕府側をけしかけることで、
日本を内戦状態に持っていき、
両者共倒れを狙って、
その時に労せず、
英国と仏国で日本を植民地化する計画だったのでしょう。
それが坂本龍馬と徳川慶喜のおかげで内戦は回避され、
両国はさぞ悔しい思いをしたことでしょう。
当然、龍馬も慶喜も両国の思惑などお見通しだったため、
内戦回避の行動をとりました。
欧米で尊敬する日本人を聞くと、
意外なことに徳川慶喜という声が多いようです。
それは自分の利益を捨ててでも国を守った、
ということから来ています。
日本での慶喜評価は、どちらかというと、
「情けない」といった声の方が多いのではないでしょうか。
3/4 「ユダヤが解るとアメリカが見えてくる」ロングプレイヴァージョン(宇野正美)より
(1:47~)
アメリカでの調査で、日本の歴史上の人物で一番尊敬できる人
1位:徳川慶喜
2位:東郷平八郎
2位の東郷は当時田舎
1位の慶喜はなぜ?
鳥羽伏見の戦いの敵前逃亡から謹慎に次ぐ謹慎。
寛永寺で謹慎、水戸へ行って謹慎、静岡の駿府へ行ってまた謹慎。
もし慶喜が立ち上がって徳川軍をまとめて薩長軍と戦えば、
あるいは徳川軍は勝っていてもおかしくない兵力でした。
すると少なくとも、日本国内においては内乱が起きます。
その内乱という「秩序破壊」を待っていた連中がいたのです。
これが西洋列強です。
それを知っていた慶喜は、
「日本における内乱は絶対に避けなければならない、植民地になってしまう」
という危機感を持っていました。
だから何と言われようと、謹慎に次ぐ謹慎をとおしたのです。
日本人はそれを知りませんが、
アメリカ人はそれを知っていて、
尊敬する人ナンバーワンに慶喜を挙げるのです。
話しを戻して、
その後、英国と仏国は榎本武揚に最後の望みを託しますが、
ついに降伏して内戦は広がりませんでした。
明治維新後に英国が獲得したもの
金(GOLD)
1871年からHSBCの協力により、
明治政府は金貨や銀貨を鋳造していきます。
HSBCは、日本政府が円を自国通貨として採用するにあたって、政府に支援と助言を行いました。
HSBC japanHPより
英国はHSBCから鋳造機を送り、
日本の金を集めて金貨を作らせ、
英国からの技術提供に対して、
日本から金貨で支払わせました。
それにより、
日本から金はなくなってしまいました。
それは英国に借り(「つけ」の代金)のあった明治維新の薩長の藩士たちが、
英国のために恩を返していた、ということなのでしょう。
その証拠として、
日本の造幣局の責任者は、
代々、薩長土肥の志士たちです。
特に長州五傑のうち山尾以外の4人は造幣局長となっています。
さらに、造幣局の創業当時は五傑のうち、2名が要職についていました。
造幣局の歩みより
このように、明治維新の志士たちは、
金貨を鋳造しては、英国への代金の支払いのために金貨を差し出し、
明治維新の恩義に報いました。
金 利
これは日露戦争における、借金返済の話しです。
高橋是清により、無謀な日露戦争の資金の融資に、
ジェイコブ・シフは応じました。
ここから先は既出の情報なので、
省略します。
その完済は1986年です。
日本はまじめですね。